トマトの語源やトマトの生まれ、豆知識など、
様々な視点からトマトの歴史を勉強します。
トマトという呼び名の語源を知っていますか?
日本ではトマトでも他の国では違うんです。
語源は「膨らむ果実」
トマトという呼び名は「膨らむ果実」を意味する「トマトゥル」からきています。はるか昔、メキシコ湾をのぞむベラクルス地方のアステカ人がこう呼んだのが始まりです。トマトゥルとは元来「ホオズキ」を指し、メキシコではホオズキを煮込んで料理に使っていたところから、形がよく似たトマトも同じ名前で呼ばれたようです。
ところで、この「トマト」という呼び名、世界共通だと思っている人も多いのでは?実は、イタリアでは「ポモドーロ(黄金のリンゴ)」、フランスでは「ポム・ダムール(愛のリンゴ)」、イギリスでは「ラブ・アップル(愛のリンゴ)」と、さまざま。なぜリンゴ?と思われるかもしれませんが、昔からヨーロッパでは値打ちの高い果物や野菜を「リンゴ」と呼ぶ習慣があったからのようです。
黄金のように貴重な果実
トマトに関する世界最古の文献は、植物学者マッティオーリが1544年に出版した『博物誌』です。また、イタリア語でトマトを意味する「ポモドーロ(pomodoro)」は、同じくマッティオーリが10年後の1554年に出版した改訂版の『博物誌』の中に初めて記載されています。語尾のoroには、黄金や富のように貴重な物、あるいは金色という意味があるのですが、彼はトマトを「とても大切な物」という意味で表現したかったのかもしれません。『博物誌』改訂版には「熟すると黄色になるものと赤色になるもの」と書かれていますから、彼が最初に見たトマトは黄金色、つまり黄色やオレンジ色の品種だったのかもしれません。
リンゴから桃へ!?
トマトの学名は、ラテン語で「ソラナム・リコペルシコン」。実は、この学名にもなかなか興味深い意味が隠されています。リコペルシコン は「狼(lycos)」と「桃(persicon)」を合体させた言葉で、「狼の桃」となります。
名付け親は、英国の植物学者フィリップ・ミラーで、1754年に発表しています。「リンゴ」から「桃」に変わった経緯は定かではありませんが、「狼の桃」とは、いかにもたくましい生命力を感じさせるネーミングですね。
元祖はチェリータイプトマト。
植物学者たちの調査で
アンデス高原に
自生していることが分かりました。
元祖はチェリータイプトマト
トマトの故郷は、南米ペルーを中心としたアンデス高原の太平洋側の地域という説がもっとも有力です。さんさんと降り注ぐ太陽、カラリとした気候、昼夜の温度差、そして水はけのよい土壌・・・。こうした環境のなかで生まれたトマトの原種とは、いったいどんな形や味だったのでしょう?
植物学者たちの調査で、アンデス高原には8~9種類の野生種トマトが自生していることがわかりました。いずれも現在のミニトマトに近い形で、たくさんの小さな実をつけたチェリータイプトマトです。
メキシコへの旅
この野生種トマトは、人間や鳥によってメキシコに運ばれ、栽培され食用になったと考えられています。中でも「ピンピネリフォリウム」は、糖度が高く、熟すと真っ赤になる野生のトマト。これらを人間や鳥、獣が好んで食べ、種を排泄し、その種が発芽し、再び実を結ぶ。そうして少しずつ分布を広げていき、やがてメキシコで食用として栽培されるようになったのです。
220年前に北米へ
栽培トマトの発祥地・メキシコのお隣でありながら、アメリカにトマトが伝わったのは、ヨーロッパに遅れること200年余。当時バージニア州知事だったトーマス・ジェファーソン(後の第3代大統領)が、1781年に自宅の庭で栽培を始めたという記録が残っています。しかし農産物市場に並ぶほど本格的に栽培されだしたのは19世紀なかばになってからです。
メキシコで栽培されたトマトが、
いつ、どのようにして
海を渡り
ヨーロッパへ広がったのでしょうか?
南米から、はるかヨーロッパへ
メキシコで栽培されたトマトが、いつ、どのようにして海を渡りヨーロッパへ広がったのか?これには1492年のコロンブスによる新大陸発見が大きく関係しています。
コロンブス以降、大勢のスペイン人が続々と新大陸に押し寄せ、その戦利品のひとつとしてトマトを持ち帰り、ヨーロッパに広めたと考えられています。トマトに出会った最初のヨーロッパ人は、1521年にアステカ文明を征服したエルナン・コルテスという説が有力です。
観賞用として栽培がスタート
ヨーロッパでトマトを食べるようになったのは18世紀になってからのことといわれています。なぜ、トマトがヨーロッパに持ち込まれてから200年もの間、食用として受け入れられなかったのでしょうか?
その理由は強烈な匂いやあまりに鮮やかな赤い色への抵抗感、さらにナス科の植物には麻酔作用や幻覚作用のある植物が多かったことから、トマトも有毒植物であると信じられていたのでは、と考えられています。一説によるとヨーロッパでトマトをはじめて栽培し食用としたイタリア人は、飢饉のためしかたがなくトマトを食べたといわれています。
トマトが日本へ伝わったのは?
栽培と国産ケチャップの誕生の歴史です。
江戸時代に渡米
日本にトマトが伝わったのは17世紀なかば。徳川四代将軍・家綱のおかかえ絵師・狩野探幽が「唐なすび」と呼び、1668年にスケッチしています。文献でもっとも古いものは、江戸前期の儒学者・貝原益軒の『大和本草』(1709年)で、「唐ガキ」と紹介されています。
最初はヨーロッパ同様、観賞用として珍重されていました。食用になったのは明治以降。キャベツやたまねぎ、アスパラガス、にんじんなどの西洋野菜とともにあらためてヨーロッパやアメリカから導入されたのでした。
カゴメ創業者がトマトを栽培
その西洋野菜にいち早く目をつけ栽培に着手したのが、カゴメの創業者である蟹江一太郎。兵役を終えて帰郷した翌1899(明治32)年の春のことです。農家の跡取りだった一太郎は、愛知県知多郡荒尾村(現在の東海市荒尾町)の自宅の脇に、トマトをはじめさまざまな西洋野菜の種を蒔きました。これがカゴメ誕生の第一歩です。
一太郎は、やがて収穫した西洋野菜の販売を始め、ホテルや西洋料理店など少しずつ得意先を増やしていきました。しかしトマトだけは独特の青くささと、真っ赤な色が敬遠され、全く売れずに頭を悩ませます。そんな折、西洋ではトマトを加工して使うこともあると聞き、舶来のトマトソースを手本に独自のトマトソースの開発に乗り出したのです。
国産ケチャップの誕生
蟹江家が一家総出で試作品に取り組んだ結果、1903(明治36)年に第1号のトマトソース(現在のトマトピューレー)が完成。高い評価を受けるとともに事業規模も拡大。5年後の1908年には、トマトケチャップとウスターソースの製造を開始しました。
当時はコロッケなどの洋食がもてはやされていたこともあり、トマトケチャップにさきがけてウスターソースが一気に大ヒット。さらに大正初期から昭和にかけて、家庭料理の洋風化がすすむにつれ、トマトケチャップは大きく売り上げを伸ばし、私たちの家庭にもなじみの味として定着してきたのです。